場 所 : 滋賀県大津市
		日 時 : 2013年5月18日(土曜)
		集 合 : AM10:00 京阪電車「三条京阪駅」下車 高山彦九郎像の前(四条に変更)
		経 路 : 各自お調べ下さい。
		持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他
		行 程 : 「京阪三条駅」=(京都市営地下鉄)=「みささぎ駅」− 天智天皇陵 −「みささぎ駅」− 「山科駅」 
			  − 山階寺跡 − 「山科駅」=(京阪石山坂本線)=「別所駅」− 大津市歴史博物館(昼食?) − 
			  弘文天皇陵 −皇子が丘公園(昼食?)−近江大津宮錦織遺跡 − 皇子山古墳 − 近江神宮 − 
			  近江神宮駅=(京阪石山坂本線・京都市営地下鉄)京阪三条駅

		概 要 : 白村江の戦いに敗れた天智天皇は、唐の来襲を恐れて奈良から大津へ遷都する。大津京の全貌は未だ明らか
			  になっていないが、天智天皇陵・弘文天皇陵を訪ねて、大津に残る都の面影を偲び、皇子山古墳、山階寺跡、
			  等々を訪ねて歩く。
		解 説 : 今日の散策は、遺跡が京都地下鉄と京阪石山坂本線に沿って点在しているので、電車と徒歩を組併せた例会
			  となります。三条から電車に乗って御陵(みささぎ)で降り、山階まで歩いてまた電車に乗り、別所まで電
			  車。そこで幾つか見学してまた電車に乗り、神宮前でおりる。時間があればそこから南滋賀まで歩きまた電
			  車に乗って滋賀里へというコースです。








		鴨川の畔で本日のコースを確認後、京都市営地下鉄東西線に乗車して「みささぎ駅」へ。ここに葬られている天智天皇
		は、言わずとしれた、かって朝倉の「木の丸殿」で暮らしていた事もある、朝倉ゆかりの天皇である。


「みささぎ駅」から天智天皇陵へ歩いてくると、御霊の前に日時計がある。日本で初めて暦を作った天皇にちなんでの顕彰碑のようだ。




		第38代 天智天皇陵 山科陵(やましなのみささぎ)
   
		四条から京都市営地下鉄東西線に乗って「御陵(みささぎ)」駅で降りる。ここから歩いて5,6分で天智天皇陵だ。
		天智天皇陵のそばに日時計が設置してある。日本初の時計(水時計)を作ったという天智天皇にちなんだものと思わ
		れる。
		ここから陵前の鳥居までは、結構長い林の参道が続いている。歩くうちに廻りの喧噪がかき消えてしまい静かな空間
		になっていく。

		異名: 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)、近江大津宮天皇(おうみおおつのみやのすめらみこと)、
			葛城皇子(かつらぎのおうじ)、開別(ひらかすわけ)皇子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
		生没年: 推古34年(626)〜 天智天皇10年(671)(46歳)
		在位: 天智7年(668) 〜 天智天皇10年(671)
		父:  舒明天皇(田村皇子)第1皇子
		母:  皇極天皇、斉明天皇(宝皇女)
		皇后: 倭姫(やまとのひめ:古人大兄皇子の娘)
		皇妃: 遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのい
			らつめ)、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(い
			がのうねめやかこのいらつめ)
		皇女子: 建皇子(たけるのみこ)、大田(おおt)皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)、
			・・・ 以上母は遠智娘
			御名部(みなべ)皇女、阿閉(あへ)皇女(元明天皇) ・・・ 以上母は姪娘
			飛鳥(あすか)皇女、新田部(にいたべ)皇女 ・・・ 以上母は橘娘
			山辺(やまのべ)皇女 ・・・ 母は常陸娘
			川島(かわしま)皇子、大江(おおえ)皇女、泉(いずみ)皇女 ・・・・ 以上は母は色夫古娘
			施基(しき)皇子 ・・・ 母は道君伊羅都売
			伊賀(いがの)皇子(大友皇子:弘文天皇) ・・・ 母は伊賀采女宅子娘
		宮居:  志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町)  
		御陵: 山科陵(やましなのみささぎ:京都市東山区山科御陵上)




		この天皇は有名人である。エピソードには事欠かない。大海人皇子は同母弟、間人皇女(孝徳天皇皇后)は同母妹。
		中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代には中臣鎌子(藤原鎌足)と謀って有名な「大化の改新」を断行し、
		蘇我一族による政権を打倒した。
		日本最初の全国的な戸籍を作り(庚午年籍:こうごねんじゃく)、班田収受の法を実施するなど、朝廷による中央
		集権の体制を確立した事でも有名。弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のち天武天皇)と額田王(ぬかたのおお
		きみ)をめぐっての恋の駆け引きもなかなか味わい深いものがある。

		中大兄皇子は、「大化改新」後もなかなか即位しない。

		父の舒明天皇時代は蘇我蝦夷・入鹿全盛時代であったから皇子の意見など通るべくもないが、父の死後まだ16才だ
		ったので、母の宝姫皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位す
		る。しかし入鹿がいる限り、蘇我氏の血を引いていない皇子は永久に天皇にはなれない。そこで入鹿暗殺という事
		になるのだが、「大化改新」を起こした後皇極天皇は中大兄皇子に即位を促すが、皇子らは叔父(皇極帝の弟)の
		軽皇子(かるのみこ)を孝徳天皇として即位させる。
		しかし孝徳帝は結局、中大兄皇子、中臣鎌子らの傀儡でしかなかった。政変後即位した孝徳天皇の御代、次代の斉
		明天皇の御代それぞれ皇太子となり、国政に携わる。大化元年9月、吉野に出家していた古人大兄皇子(舒明天皇
		の第1皇子)謀反の密告をもとに、中大兄皇子は兵を差し向け古人大兄皇子を殺害する。

		孝徳帝崩御後もまだ中大兄皇子は即位しない。
		しかたなく母の皇極女帝が再び即位する。重祚(ちょうそ)である。皇極女帝は斉明天皇となる。歴史上始めての
		重祚であった。孝徳天皇崩御後、孝徳天皇の遺児有間皇子を謀反のかどで処刑するなど、皇太子のまま実権を握っ
		ていた。
		その後朝鮮半島では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・中大兄皇子らは飛鳥を離れ九州に赴く。筑紫
		(福岡県)の朝倉の地に、橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を仮宮として建設しここで百済救済の陣頭指揮
		にあたるが斉明天皇はここで崩御する。
		急死であったため朝倉の地に葬られたが、入鹿の怨霊が大鬼となって女帝の葬列を山の端から眺めたとか、鬼火が
		宮廷の廻りを飛び交ったとかいう伝説が残っている。推定地はあるが、この橘広庭宮の跡も斉明天皇の墓も未だ確
		定してはいない。




		斉明天皇の崩御(660年)直後、白村江(はくすきのえ)で日本軍は唐・新羅連合軍に敗退しここに百済は滅亡した。
		中大兄皇子は敗戦の将兵・百済からの亡命者等々を引き連れて飛鳥へ引き上げるが、百済からの逃亡者はその後も
		大挙して日本に亡命し、大量の帰化人を生んだ。
		朝廷はその後連合軍の上陸を恐れ、筑紫に防人を配置し、太宰府を守るため1キロに渡る水城(みずき)を築く。母
		斉明天皇の死に伴い、中大兄皇子は称制(天皇に代わって臨時に国政を行う事)し6年間天皇不在の時代が続く。
		天智6年( 668)正式に即位し、その後住み慣れた飛鳥をでて近江に遷都する。
		ここでやっと「天智天皇」となるのである。斉明天皇が朝倉で崩御して6年後の事であった。皇子はすでに43才にな
		っていた。近江国大津(滋賀県)で、近江令(おうみりょう 法令)の制定等を行った。

		同母弟で、皇位継承の最有力候補で、一旦立太子されていた大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀
		殺して行く天智天皇を怖れ、天智天皇から皇位の打診があった際これを断り、自ら剃髪して吉野に出家する。そこで
		天智天皇は、長子の大友皇子(後の弘文天皇)を後継に擁立して、大海人皇子の出家から2ケ月後、即位から3年で
		近江に崩御した。46才。




		平安時代末期、僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、「一云」として、天智天皇が馬に乗って山科の里へ遠出
		し帰ってこず、数日後履(は)いていた沓が見つかった。その沓の落ちていた所を御陵としたという。
		この記事を持って、天智天皇の死は暗殺ではないかというような説もあるようだ。近年、乙巳の変(大化改新)の主
		導者を、中大兄でなく軽皇子(孝徳天皇)だったとする説が提出され、注目された。
		中臣鎌足は軽皇子と結びついていたというが、例によって「真相は闇の中」である(遠山美都男『大化改新』など)。



いわゆる飛鳥時代の宮

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宮の名前
移った年
住んだ天皇
宮の場所
豊浦(とゆら)宮 592 推古 飛鳥
小墾田(おはりだ)宮 603 推古 飛鳥
飛鳥岡本宮 630 欽明 飛鳥
田中宮 636 欽明 飛鳥
厩坂(うまやさか)宮 640 欽明 飛鳥
百済(くだら)宮 640 欽明 飛鳥
飛鳥板蓋(いたぶき)宮 643 皇極 飛鳥
難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳 難波
飛鳥板蓋宮 655 斉明 飛鳥
10 飛鳥川原宮 655 斉明 飛鳥
11 後(のちの)飛鳥岡本宮 656 斉明 飛鳥
12 朝倉橘広庭宮 661 斉明 福岡県朝倉市(私の故郷)
13 近江大津宮 667 天智 近江
14 嶋宮 672 天武 飛鳥
15 飛鳥岡本宮 672 天武 飛鳥
16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 672 天武 飛鳥
17 藤原宮 694 持統
文武
元明
飛鳥
18 平城宮 710 元明 奈良

		日本書紀には、「天智陵」について記載はない。しかし万葉集に「山科の鏡の山」に御陵を築いた記述が見える。
		また「延喜諸陵式」に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」
		とあり山科山陵を墓所とするとある。また天平九年成立の「大安寺伽藍縁起併流記資財帳」によれば、倭姫大后が
		「仲天皇」と称されており、天智崩後、倭姫大后が中継天皇として即位した可能性もある。

		天智陵は考古学的には「御廟野古墳」と呼ばれている。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置し、古墳時
		代終末期の古墳だ。上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしている。下方部は二段築成で、上段は
		一辺46m、下段は一辺70m。但し下段は南側のみが造成されている。また上段、下段とも石列がある。正面には「沓
		石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石がある。宮内庁比定の天皇陵の中でも、ここは衆目が一致する「天智天皇陵」
		である。




別所駅で降りて「弘文天皇」陵を目指して歩いてゆく。





お弁当を持ってきていない数人が、近くのコンビニを探してうろうろ。








		新羅善神堂 (しんらぜんしんどう)
   
		京阪石山坂本線別所駅から西へ5分。弘文天皇陵のすぐ横にある。祭神は「新羅明神」だそうだがよくわからん。
		由緒によれば、園城寺開祖の智証大師円珍が唐から帰朝の時、船中にあらわれた新羅の国神を祀ったと言う。
		後に源頼義の新羅明神への祈願から、源氏と園城寺の深い関係ができ、源頼義が東北の安倍頼時を攻めるに当たっ
		て、新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録がある。その子義光も新羅明神の前で元服し、新羅三郎義光と名乗っ
		た。
		新羅三郎義光は後に関東に下り、甲斐源氏の祖となり、武田につながるといわれるが、ここから博物館へ向かう背
		後の山のなかに墓があるのはどうしてだろうか。神仏図絵という古絵図には、新羅明神について「素盞嗚尊皇子な
		り 母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」と記されているそうで、このあたりもよく
		わからん。貞観2年(806年)に作られたといわれる、本堂内の檜一本造「新羅明神坐像」は国宝である(と書				いてある、見たわけでは無い)。









上はクリックで拡大




		新羅善神堂から石段を降りて、広い原生林のような林を抜けて鳥居まで来ると、車道を挟んですぐ前が大津市歴史
		博物館、「弘文天皇陵」である。 






		第39代弘文(こうぶん)天皇
    
		別名: 伊賀皇子(いがのおうじ)、大友皇子(おうとものおうじ)
		生没年: 大化4年(648)〜 天智天皇11年(672)(24歳)
		在位: 天智10年(671) 〜 天智天皇11年(672)
		父:  天智天皇 
		母:  伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)
		皇后: 十市皇女(とおちのひめみこ:大海人皇子と額田王との間の皇女。大友皇子のいとこ。)
		皇女子: 葛野皇子(かどのおうじ)、与多王(よたのみこ)
		宮居:  志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町)
		御陵: 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ:滋賀県大津市御陵町)




		弘文(こうぶん)天皇は天智天皇の第一子で、大友皇子(おおとものおうじ)としての名の方が知られている。
		天智の死後、吉野に隠遁していた大海人皇子(おおあまのおうじ)の起こした「壬申の乱」(じんしんのらん)
		に破れて自害した。




		「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していないが、明治になって歴代天皇に加えられた。
		日本書紀では、大友皇子が即位したとは見なしていないようである。弘文天皇記の段は存在しない。一代として認めてい
		ないのだ。日本書紀を編纂したのは大海人皇子(天武天皇)の皇子舎人親王である。従って、父が、即位した天皇から皇
		位を簒奪(さんだつ)したとはとても書けなかったのだろうと推察される。




		明治期になるまで、大友皇子は日本書紀に即位の記事がないという事で、天皇とは見なされていなかった。しかし記事が
		無いからと言って即位していないとは言えない、むしろ即位したのに舎人親王らが覆い隠したのだと江戸時代の国学者伴
		信友(ばんのぶとも)は主張し、水戸藩が編纂した「大日本史」も同様の説を掲げた。
		幕末から明治にかけての国学高揚の気を受けて、明治政府は明治三年、大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を
		与え、1200年ぶりに第39代天皇と認定した。東京の国立公文書館に行くと、「弘文天皇」を皇統に加えてもよいかという
		明治天皇へのお伺い書が展示してある。これで大友皇子は「天皇」となった。




		「壬申の乱」は皇位をめぐる我が国古代最大の内乱である。琵琶湖を中心に重臣・周辺豪族・国司・郡司らが大友派と大
		海人派に別れて争った。この内乱については昔から論評されており、それによれば乱の原因としては、

		(1).政治方針の対立、
		(2).中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)兄弟の確執、
		(3).近江遷都に端を発した豪族達の不満が爆発、
		(4).大友皇子(弘文)の勇み足等々

		が挙げられる。この乱をどう評価するかは、その前後の天智・天武の両朝をどう評価するかという事とも関係がある。
		(1).(3).は、急激な天智天皇の改革に反対する豪族が、白村江に敗北して基盤のゆるんだ近江朝を打倒しようと大海人
		皇子を擁立したというもので、(2).は、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる確執が皇位継承問題で火がつき、天智の
		死で一挙に燃え上がったとする。(4).は、大友皇子が叔父の大海人皇子を警戒するあまりやらずもがなの抑圧を図って、
		返って大海人皇子の暴発を招いたというものである。(詳細はHP「邪馬台国大研究」の天皇陵巡りを。)





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		近江大津宮錦織遺跡

		現滋賀県大津市には、天智天皇の「近江大津宮」の跡地と見られる「錦織遺跡」がある。奈良・飛鳥から遷都された
		大津京跡とされている。 昭和58年、宮の中心となる内裏正殿の建物跡が検出され、長い間謎だった幻の大津宮の
		位置が明らかになった。宮に関する遺構としては、巨大な柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉
		庫群、石敷溝が見つかっている。



		大津宮(近江宮、近江大津宮などとも言う)をめぐっての謎は3つあった。一つはその位置である。説明板にもある
		ように、かって大津宮の候補地は、錦織、南志賀、滋賀里の3ケ所だったが1979年の発掘調査で錦織地区に大規模な
		建物跡が発見され、ここが大津宮であった事がほぼ確定した。この地は、古来からの言い伝えにより大津の宮である
		とされ、「志賀皇宮遺跡」という石塔と石碑が建てられていた。石碑はもう字がかすれて殆ど読めないが、「言い伝
		えによりここに大津京があったと言われる」と書かれていた。



		発掘によりその事が証明されたわけで、「伝承」は結構真実を含んでいるという好例である。宮の全体像は、ご覧頂
		いたように廻りを住宅地に囲まれており、当分の間判明しそうにはない。



		謎の2つ目は「京」の問題である。果たして「近江京」と呼べるような都が存在していたかどうか。これについても
		いろんな議論があるが、大津市は既に市街地化が完了しており大規模な発掘などはしばらく実行できそうにない。
		従ってこれまた当分の間論議は続くであろう。



		3つ目の謎は「遷都」の目的である。なぜ天智天皇(中大兄皇子)は、都を突然奈良から移したのか。1つの説は、
		白村江の戦いに敗れた朝廷が、唐・新羅軍の日本上陸におびえ、大和盆地よりも有利な琵琶湖畔に要塞都市を築こ
		うとした、というもの。
		確かに、筑紫に大規模な水城や山城を築いた防御態勢を見ると分からなくもないが、なぜ近江なのだという疑問は
		残る。近畿まで攻め入られたら大和盆地であろうが近江であろうが、さして変わりはないような気もする。



		2つ目の説は、律令国家の邁進に燃える天智が、新たな国家の為に全く新しい新天地を求め、それが近江だったと
		いうもの。
		さらに幾つかの説があり、我が子「大友皇子」は琵琶湖畔に住む「大友氏」に養育を任せており、我が子の即位の
		ためにその地に都を造った、という説もある。いずれも論者による古代観の違いに基づくので、まだまだ「遷都」
		をめぐる論争は続きそうである。



		私はこう考えている。斉明天皇が飛鳥にいた時点、あるいはそのもっと前から、近江には有力な渡来人あるいは豪族
		がいて、その集団は中大兄皇子に肩入れしていたのではないか。天智は、白村江の戦いに敗れて筑紫から大和へ戻っ
		てくるとき、大勢の百済の亡命者達を引き連れて来ている。そしてその亡命者達は多くが琵琶湖の南側に居住したと
		考えられる。



		それはずっと以前からそこが「同郷」のムラだったからではないだろうか。その為天智は「大友皇子」も彼らに養育
		させ自らもその地に移って新たな国家を建設しようとしていたのではないだろうか。


		時代をのぼって「継体天皇」の即位を考えてみても、彼を後押しする集団は北河内・淀川水系の豪族達だった事は明
		白である。その援護で20年後に奈良を平定する。同様に天智も、肩入れしてくれる集団への見返りとして近江に都を
		定めたような気がする。近江に遷都してわずか5年で天智天皇はみまかり「壬申の乱」に発展するが、もし天智があ
		と20年生きて「近江京」を本格的に整備できていたら、今の日本の首都は滋賀県だったかも知れない。


		それはずっと以前からそこが「同郷」のムラだったからではないだろうか。その為天智は「大友皇子」も彼らに養育
		させ自らもその地に移って新たな国家を建設しようとしていたのではないだろうか。



		時代をのぼって「継体天皇」の即位を考えてみても、彼を後押しする集団は北河内・淀川水系の豪族達だった事は明
		白である。その援護で20年後に奈良を平定する。




		同様に天智も、肩入れしてくれる集団への見返りとして近江に都を定めたような気がする。近江に遷都してわずか5
		年で天智天皇はみまかり「壬申の乱」に発展するが、もし天智があと20年生きて「近江京」を本格的に整備できてい
		たら、今の日本の首都は滋賀県だったかも知れない。




















		近江神社 	出典:ウィキペディア
  
		近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市に鎮座する神社。皇紀2600年を記念して同年に相当する昭和15年(1940
		年)に創祀された。天智天皇7年(667年)に同天皇が当地に近江京を営み、飛鳥から遷都とした由緒に因み、同天皇を
		祭神として創祀された。
		天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などを飾
		ってあり時計館宝物館が併設されている。また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技か
		るたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。社殿は「近江造」と呼ばれる独特の
		もので、国の登録有形文化財に登録されている。 




	天智天皇と大津京 史跡と伝承 (近江神宮HPより抜粋転載)

	<近江大津宮概説>(大津市歴史博物館所蔵 『大津の歴史』より)

	天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時より都を置かれていた飛鳥岡本宮より近江大津宮に都を移された。それまで
	の多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地であるが、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図
	るとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、深刻化した本土侵攻
	の危機に備え、国土防衛のための態勢を整えるなかで、その根幹として天然の要害であるとともに交通の要衝でもある大津に遷
	都したものと考えられている。




	5年後に起った壬申の乱の敗戦によりわずか5年半の都に終るが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進される
	ことになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなった。更にそのあとを受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかか
	わらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられたことにより、天智朝の意義もより大きなものとなったといえる。
	宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区である
	ことが確定的となった。『近江名所図絵』(文化11年・1841)『近江名跡案内記』(明治24年)などに記された、大津
	京は錦織字御所之内にあったという伝えに基づき、明治28年、この地に『志賀宮址碑』が建立されていたが、あたかも碑の建
	立地は復元推定地の中心地、内裏南門の跡に相当する。碑のある場所から近江神宮に至る県道は、まさにそのまま大津京のメイ
	ンストリートの跡でもあったのである。




	なお、一般に大津京といわれているが、大津京の語は古い文献に表われておらず、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制
	をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないとして、大津宮というべきだとする学者
	が多い。一方、中心部の宮域内を大津宮といい外延部まで含めた全体像を大津京というとする考え方もある。   




	<近江大津宮錦織遺跡>

	昭和49年、錦織二丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。続いて昭和
	53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるにい
	たった。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進
	展している。昭和54年7月に国史跡に指定された。
	昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門であることがわかり、復原する
	と東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属している。この門の北側が内裏、南側が朝堂院である。門の真北に
	は三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿がある。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されて
	いる








		滋賀里駅から、東海道自然歩道を山の方に歩いて集落を抜け、まもなく林のなかに、自然石を組み合わせた小さな古墳
		が多数見られる。上に土盛りがあったのだろうが、今は流れてしまって石室の石組みだけが残る。比較的大きなものか
		ら随分小さいものまであって、実際は60基あまりらしい。百穴古墳群と呼ばれている。
		ここから韓国系の、炊事道具のミニアチュア土器等が多数出土し、被葬者たちは朝鮮半島系の渡来人だろうと推測され
		る。朝鮮半島では古くから政変動乱があり、日本海を渡って大勢人々が渡来し、一群が琵琶湖畔に定着しこのあたり一
		帯に集落を形成していたと思われる。




		すぐ北に穴太(あのう)という地名が今も残っているが、ここも半島系の集落があった所で「穴太衆」という石工集団
		が、戦国時代から城壁の工事に活躍した。穴太積みとか野面(のづら)積みとか言われるが、穴太の石工は自然石の形
		をうまく組み合わせて、丈夫で崩れない城壁を建造する特殊技術を持っていた。恐らく大陸から伝承したものを受け継
		いだ可能性もある。切石を使うのは後世になってからのことである。




		百穴古墳群<(ひゃっけつこふんぐん)  (大津市歴史博物館HPより)

		滋賀里の西方山中の山中越の旧道沿いにある。全体的に削られたり流失したりしていて明確ではないが、すべてドーム
		状の横穴式石室をもつ円墳とみられる。古墳群のうち一基には花崗岩製のくり抜き式石棺が安置され、今も見られる。
		石室の構造から6世紀後半頃のものと考えられる。国指定史跡。

		交通アクセス
		京阪電車石坂線滋賀里駅下車、山手へ徒歩15分(15分では着かない。駅からだと30分はかかる。)










		説明板の後から尾根筋にかけて、木々の生い茂る林が広がっている。南北約150m東西約250mの範囲に、ドーム
		状の横穴式石室をもつ小型の円墳が点在している。墳墓はどれも直径が10m以下の小型円墳である。盛り土は削れた
		り流失したりしている。現在までに確認できているもの60数基、埋没したものなどを加えると100基以上になると
		推定されている。 




		石室は、天井に向かうにつれて壁石が少しずつせり出すように積まれている。このため、天井はドーム状になっている。
		石室内には2〜3人の遺体が葬られており、死んだ時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、木や石の
		棺桶にいれられていた。
		また、石室内には、多くの土器(土師器・須恵器)と、祭祀用のミニチュア炊飯具セット(カマド、カマ、コシキ、ナ
		ベ)もあった。




		この古墳群の築造時期は、石室の構造から古墳時代後半(6世紀後半)頃となっている。6世紀後半と言えば、ヤマト
		では欽明天皇やその後を継いだ敏達天皇の時代である。西暦574年には聖徳太子が誕生し、645年には大化の改新
		が起こる。その頃この地域に朝鮮半島系渡来人たちの大集落が営まれていたのだ。それは現在の大津市内から比叡山麓
		を琵琶湖に沿って北東にのび、志賀町に至る地域に存在している。百穴古墳群はこうした氏族たちの奥津城だったと考
		えて良い。




		やがて天智天皇がこの地に「近江京」を移すのも、ここに葬られた人々の助けがあったからかもしれないのだ。ここの
		被葬者の幾人かは直接天智天皇と言葉を交わしたりした者がいたのかもしれない。



穴、穴、穴で百穴かい。そのまんまやね。



昼間だから平気だけど、夜だったら確かに少し怖いかも。














		百穴古墳群

		【所在地】滋賀県大津市滋賀里町甲 
		【古墳群】ドーム状の横穴式石室をもつ直径10m前後の小円墳。現在60数基が確認されている。
		【国指定史跡】昭和16年(1941)年1月、国の史跡に指定された 
		【アクセス】(自動車)名神道「京都東」ICより西大津バイパス経由15分、「近江神宮」ランプより5分
			  (電車)京阪電車石坂線「滋賀里」駅下車、山手へ徒歩25分





























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