Music: 京都の恋

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関西あさくら会 第7回歴史ウォーキング 醍醐寺近辺歴史探訪  
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秀吉「醍醐の花見」の地・小野小町生誕地・平家ゆかりの地



■日 時 :平成27年5月30日(土曜日)
■集 合 :京阪線「三条京阪」駅前集合 AM10:00集合(高山彦九郎皇居遙拝像の前あたり) 
■持 参 :弁当、替着、雨具他は各自ご準備下さい。(付近にコンビニ・食堂はありません)
■コース :見学旧跡  三条京阪より京都市営地下鉄「東西線」で「小野」まで。(コースは別途地図参照の事)
	醍醐天皇ゆかりの寺「勧修寺」− 小野小町ゆかりの寺「随心院」− 醍醐天皇後山科陵 −
	朱雀天皇醍醐陵 − 理性院・三宝院・長尾天満宮 − 醍醐寺(金堂・五重塔・女人塔)− 中臣遺跡
			     − 昼食 −
	明智塚・法琳寺跡碑・明智藪(明智光秀が討たれたところ)− 「平家物語悲劇の主人公」平重衡の墓。
	「栢(かや)の杜」遺跡。(醍醐寺別院八角堂の跡平家物語ゆかりの阿波内侍の寺「一言寺」 −
	かやの木不動「善願寺」 −「醍醐駅」へ  東西線にて「三条京阪」へ。三条にて反省会・解散。
★参加連絡 当日連絡先 井上 090-    自宅 06- 
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青い円内は訪問した所、赤い円内は余りの暑さに断念した所。


<集合・高山彦九郎皇居遙拝像前> 三条大橋のたもとに 高山彦九郎皇居遙拝像があります。 京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。 初代は1928年に作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫をした。しかし、 1944年11月に金属類回収令で供出され、現在の銅像は1961年に伊藤五百亀によって再建されたものである。 2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が建てられている。 高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日)) は、江戸時代後期の尊皇思想家である。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。 子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。 上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。戒名 は「松陰以白居士」。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされてい る。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各 地を遊歴して勤皇論を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多 くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとするが果たせずにいる。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の 亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った次の歌は、愛国百人一首にもとられており、 名高い。 我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ 尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。 1791年(寛政3年)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において 捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。 享年46。 多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物であ る。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物でもある。かの吉田寅次郎は、 高山彦九郎のことを知って以後、自分の名前を彦九郎の戒名にちなんで「松蔭」としたのは有名である。 尚、久留米には、今も「森嘉膳宅跡」が残っており、帰省されたら一度訪ねてみられたらいかがでしょうか?
<勧修寺> 昌泰三年(900年)、醍醐天皇は生母の菩提を弔うため、生母の里であった寺を御願寺と定め、外祖父藤原高藤の 諡号をとって勧修寺と号した。天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺し、門跡寺院として 繁栄したが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興された。寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書 院作りの典型とされる書院(重文)は元禄十年(1697)に、明正天皇の旧殿を外賜されたもので、書院には土佐 光起の作とされる襖絵がある。 この寺の見所は、「勧修寺氷池園」と呼ばれる池のある庭園である。また、勧修寺はこの庭園しか公開されてい ない。この庭園は「典雅の極致」とたたえられるように、まさに平安期族の庭である。二万平方メートルの池を 中心に展開する雄大な池泉舟遊式の庭園で、池の中には大小3つの島が浮かび東山を借景に15の景勝が設けられ ている。
<随心院> 随心院(ずいしんいん・ずいしんにん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。 小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野 地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。 随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海 (954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたと され、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した 寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく 死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けた という。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされて いる。 第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇、後 堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜 元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院) となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。 その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失した。 『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年 (1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。 江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が夭折 したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。 真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院は 「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺 派、泉涌寺派として独立。随心院は小野派本山となった。その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗 善通寺派と改称。昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が 善通寺派総本山、随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、随心院には能化が置かれている。 また近年、昭和48年には「はねず踊り」を創めたり、平成15年には「ミス小町コンテスト」、平成20年に ライトアップ、平成21年には若手アーティストによる「極彩色梅匂小町絵図」という障壁画を取り入れたりと、 新しい仏閣像を作り出している。
<醍醐天皇陵> 【第60代 醍醐(だいご)天皇】 別名: 敦仁(あつぎみ) 生誕−崩御:元慶9年(885)〜 延長8年(930)(46歳) 在位期間: 寛平9年(897)〜 延長8年(930) 父: 宇多天皇 第1皇子 母: 藤原胤子 皇后: 藤原穏子 皇妃: 為子内親王、源和子、藤原能子、藤原和香子、藤原桑子、藤原淑姫、源周子、源封子、     藤原鮮子、満子女王、源暖子、他 皇子女:克明親王、保明親王、代明親王、重明親王、常明親王、式明親王、有明親王、時明親王、     長明親王、宣子内親王、恭子内親王、慶子内親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、     修子内親王、敏子内親王、雅子内親王、普子内親王、靖子内親王、韶子内親王、康子内親王、 斉子内親王、英子内親王、兼子、厳子、自明、允明、為明   皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵墓: 後山科陵(のちのやましなのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐古道) この陵は住宅街の真ん中にある。御陵だけが家と家、家と駐車場の中にぽつねんとある。昌泰3年(900) 9月9日、重陽の節句に宮中では観菊の歌会が行われた。翌日の後宴にて右大臣近衛大将であった菅原道真 は、醍醐天皇より作詩を命じられ、宇多上皇・醍醐天皇の恩に報いたいと詠んだ漢詩を献上した。感激した 醍醐天皇は御衣を与える。この4ケ月後、政敵の時平に西の果てまで流されるとは露程も思わなかった、道 真絶頂の時であった。宇多天皇の第一皇子敦仁(あつぎみ)親王が即位したのは13才の時である。 そのため宇多天皇は菅原道真と藤原時平を車の両輪とする天皇親政の政治を画策した。だがその思惑はうま くいかなかった。時平は多くの賛同者を得てライバルの道真に退位をせまった。天皇の廃位を謀ったという 理由で、道真は太宰府の権師(ごんのそち)に左遷される。醍醐帝は、道真の弁護にでた宇多上皇の意見を 無視する形でこの処分を実行した。 醍醐天皇宸筆 白居易詩巻(部分) 昌泰4年(901)正月25日、突然の「道真太宰府左遷」を聞いて驚いた宇多上皇は、醍醐天皇への抗議の為 宮中に駆けつけるが、かつての宇多上皇の腹心で道真の弟子でもあった「藤原菅根」が門番をしていて、天 皇の命令だとして上皇を宮中にいれず、上皇は呆然と裸足のまま門の外に夜まで立ちつくしていたと言う。 道真は、結局九州へと赴き、太宰府の地で59歳で没した。 道真は遺言で、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれと言い残した。 味酒安行(うまさけやすゆき)によって遺言は実行され、小さな塚が築かれた。2年後味酒はその場所に祠 廟を建てたが、延喜19年、更にこの祠を藤原仲平が大きな社殿に作り替える。これが現在の太宰府天満宮 (福岡県太宰府市)であり、天満宮に牛の像があるのはその故事によっている。 醍醐上皇は延長8年(930)崩御し、土葬される。山陵の埋葬主体は、一辺3丈、深さ9尺の土壙を掘り、 その中に一辺1丈、高さ4尺3寸の「校倉」を納め、さらにその中に棺を入れたもの。外部構造としての墳 丘はないが、陵上には卒塔婆3基を立て、承平元年(931)には空堀が掘られた。現陵は直径45mの円憤だ が、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせている。 鎌倉時代の「宇治郡山科郷古図」に「延喜御陵」として挙げられている事、醍醐寺が陵の管理と祭祀を継続 していた事などから、この陵は、醍醐天皇陵と見なしても問題なさそうである。 <怨霊物語> 古来から、無実の人間が陥れられて、その怨念が時の政権に祟るというのは日常茶飯事的に記録されている。 これはおそらく、当時にあっては広く一般社会に受け入れられていた概念だろうと思う。今日では一笑に付 されるようなお話も、古代にあっては真面目に取りざたされていたのである。藤原氏に冤罪をかけられ、流 罪になった光仁天皇の皇后・井上(いのへ)内親王、皇太子・他戸親王(おさへしんのう)、桓武天皇の弟 で、反逆罪で流刑となった早良親王(さわらしんのう)らは特に有名である。 彼らの怨霊は、その高い地位の故に一般の怨霊とは区別されて「御霊」と呼ばれることもあるが、生前の権 力が強大だったこともあって、死後も天変地異や疫病を引き起こす力があると信じられていたようである。 古来、御霊を慰めるための様々な催しが幾度と無く行われてきており、京都の「祇園祭」などはその名残と 言われている。 怨霊(御霊)信仰が社会に及ぼした影響については、古くは梅原猛、最近は小説家の井沢元彦らが言及して いるが、御霊信仰は近世に至るまでこの国の支配層に根付いており、明治天皇は、「末代まで天皇家に祟っ てやる」と言い残して死んだ崇徳上皇の鎮魂のため、その鎮守府を讃岐から京都へ移している。(京都・白 峰神社)太宰府において死んだ菅原道真の怨霊が、政敵に祟り、天地異変を起こしたことは「怨霊復讐劇」 としては最初のものとされるが、当時の記録には見えないようである。文献での初現は、「日本紀略」延喜 23年の条に、「菅帥の霊魂宿忿の仕業と世間は噂せり。」とある。道真が左遷されたのは昌泰四年(延喜 元年)正月だから、23年後という事になる。道真は、延喜3年(903)に死去したが、死後20年間に渡っ てのあらゆる凶事が道真のせいだとされたのは、それだけ道真の生前の権力が大きかったのだとも言える。
<朱雀天皇陵> 【第61代 朱雀(すざく)天皇】 別名: 寛明(ゆたあきら) 生誕−崩御:延長元年(923)〜 天暦6年(952)(30歳) 在位期間: 延長3年(925)〜 天慶9年(946) 父: 醍醐天皇 第11皇子 母: 藤原穏子(藤原基経の娘) 皇妃:  皇子女:昌子内親王 皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵墓: 醍醐陵(だいごのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐陵東浦町) 醍醐天皇の第11皇子。名は寛明。延長八年(930)9月、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位して程なく、 46歳で崩御する。天皇はわずか八歳で即位したため、藤原忠平(時平の弟)が摂政となる。即位後、醍醐上皇、 宇多法皇が相次いで崩じて後ろ盾を亡くし、摂政となった藤原忠平が実権を握った。醍醐天皇の御代、清涼殿 に菅原道真公の祟りと言われた落雷があり、比較的安定していた平安時代前期が終了する。 醍醐天皇のあとを受けて朱雀天皇は即位したが、相次ぐ内乱や天災に悩まされた在位期間であった。醍醐天皇 時代に完成した「延喜式」に続いて、朱雀天皇の承平4年(931)に「和多類聚抄」(和多抄)も完成を見て いる。 承平5年(935)、平将門が関東で反乱を起こし、いわゆる「将門の乱」が始まる。またこの年、新羅が滅亡し、 高麗国により朝鮮半島の統一が成る。翌承平六年(936)には、西海で藤原純友の乱が勃発する。朝廷は、藤原 忠文を征夷大将軍に任命し将門討伐に向かせ、京都府八幡市の石清水八幡宮で、平将門と藤原純友の反乱鎮圧 のための祭礼を執り行う。天慶2年(939)12月15日、平将門は自ら「新皇」と名乗り、新しい天皇に就任したこ とを宣言するが、天慶3年(940)2月、藤原秀郷・平貞盛らに攻められ、新皇宣言の後わずか2ヶ月で、猿島 北山(現茨城県岩井市)に敗れる。将門の首はすぐさま都に送られ、獄門台にさらされるが、その首は空を飛 んで関東に戻ったと伝えられ、その首の落ちた場所が、現在の東京駅近くの「首塚」である。 ちなみに、この首塚のある現住所は「東京都中央区大手町1丁目1番地1号」であって、中央区はここから始ま っているのである。 一方、将門の乱直後に西海で乱を起こした藤原純友のほうも、天慶4年(941)6月に討ち取られ、ここに「承平 天慶の乱」は平定される。この乱に現れているように、この時代は地方に土着した貴族の武士化が進み、律令 体制が次第に弱体化していく節目でもあった。  この乱の間、承平4(934)年7月と天慶元年(938)4月・8月の大地震、承平2 年(932)・承平7年(937)承平 7年の富士山噴火が記録に見える。理科年表によれば、この937年の噴火で山中湖が形成されたそうである。   天慶9年(946)、天皇は24歳で弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、朱雀院に隠居した。この突然の譲位は、 天皇が母穏子のもとへ行幸した際、天皇の姿を見た母がその姿をほめ、東宮(成明親王)のこんな姿も見たい と言ったのを、弟への譲位を促されたと受 けとったからと言われる。村上天皇以降を一般に平安時代後期と 呼び、やがて藤原道長・頼通の時代が到来する。 朱雀天皇は天暦6年(952)崩御し、遺体は来定寺の北野(伏見区深草村付近)において火葬された。遺骨は 醍醐天皇陵の脇に埋められ、祠が造られた。元禄11年(1698)に「御廟」として江戸幕府が認定し、ついで元 治元年(1864)の改修によって拡張・整備され現在に至っている。現陵は、直径6mの円形の盛土を中心とし、 一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある。 私(井上筑前)の生まれ故郷は福岡県朝倉市秋月である。秀吉に逆らって宮崎県高鍋へ流されるまで、この地は 秋月氏が支配していた。秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。秋月家由緒によれば、大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が来朝し 帰化した阿知使主の後裔といわれる。大蔵春実は天慶3年(941)、藤原純友が反乱を起こし大宰府に攻めこん で焼き打ちしたとき、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小野好古らとともに純友を追討した。 その勲功によって西征将軍となり、筑前に所領を賜り、代々、太宰府政庁の府官の職務についた。そして、三笠 郡原田(はるだ)村に移って原田(はらだ)と称した。春実より七代目の子孫原田種雄は、「秋月家譜」に「種 雄賜封筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とあり、種雄が源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によっ て秋月氏と称したとなっている。 江戸時代になって、黒田長政の三男長興が福岡黒田藩の支藩として秋月藩を受領し、以来明治維新まで続くが、 明治初期、不平氏族が萩の乱に呼応して「秋月の乱」を引き起こし、当然鎮圧されて「山峡の小京都」と言われ る現在に至っている。
<醍醐寺> 貞観16年(874)、聖宝理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神(よこおみょうじん)の示現によって霊泉(醍醐水) を得る。そして山上に小さな御堂を建立し、准胝(じゅんてい)観音像・如意輪観音像を安置した。これが醍醐寺 の創建とされる。 その後、醍醐天皇の御願によって、延喜7年(907)に薬師堂が建立され、また五大堂が落成されて上醍醐の伽藍が 完成し、ひきつづいて下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立された。ついで醍醐天 皇の皇子朱雀天皇の起工により、その弟である村上天皇の御代に(天歴5年(951))五重塔が落成し、下伽藍が完 成する。慶長3年(1598)の春、太閤秀吉が秀頼、北政所、淀殿、大名の長束正政家など約900名を従えて催した 「醍醐の花見」は有名である。 ◆五重塔 平安時代(国宝) 醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した。京都府下最古の建造物 で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれる。 ◆平安末期の醍醐寺 醍醐寺は平安末期政治の中心にあった人達の関与が深く、藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房 (けんもんみなもとのとしふさ)の系統(醍醐源氏)が座主(ざす)として永く続いていた。そして座主勝覚(しょ うかく 俊房の息子)の時代に山 醍醐・下醍醐共に伽藍がことごとく整備され、永久3年(1115)に三宝院が建立 され、醍醐寺発展の基礎が完成した。
<明智光秀胴塚(明智塚)> 小栗栖で刺された光秀の胴体が埋められた所とされており、小栗栖街道の脇を入った民家の裏手にある。小栗栖で 自刃した光秀の遺骸のその後について、それぞれ次のように書かれている。「明智軍記」では、溝尾勝兵衛は光秀 を介錯した後、光秀の首を京都妙心寺に納めんと決意し、首を包んで狼谷までいったが敵に囲まれたため、山際に 埋めたとしている。 「川角太閤記」(豊臣秀吉の事歴を伝えた書で、川角三郎右衛門の著述といわれる)では、羽柴秀吉が三十三間堂 で休息をとっているところへ明智方の首を600から700持参してきた。その中に光秀の首があったので、秀吉は「首 と胴体をつなぎ、金具でとめて粟田口の河原に磔にせよ」と命令したとしている。 「豊鑑」では、近江三井寺にいた秀吉のもとに、小栗栖の村人が光秀の首を持参してきた。「藪のあぜで発見した が物に包んであることから、普通の人の首ではないと思っていた。光秀を知っている者がいて光秀の首と確認した。」 と述べた。その後、光秀の胴体をさがして首をつないで粟田口で磔にしたとしている。 また、京都市左京区の知恩院の近くには今も「光秀首塚」と呼ばれる場所に小さな祠が祀ってあり、近在の人々に よって供養されている。 尚、光秀が討たれた場所が「明智藪」としてこの近くにあるが、余りの暑さに皆さん「もうええ、帰ろうで」とい う事になって、ここから三条「池田屋」へ向い暑気払いをした。

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