Music: 夜霧のめぐり逢い
今回の歴史ウォークは、「関西あさくら会」、「近畿朝倉同窓会」合同で行うことになりました。
NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」に合わせて、織田信長に反旗を翻した伊丹の荒木村重が官兵衛を閉じ込
めた「有岡城」の跡地とその周辺を探訪しました。ご存じのように、黒田官兵衛の孫黒田長興が秋月藩の初
代藩主ですし、最後尾に掲示しました PDFファイルにありますように、播磨−伊丹−朝倉は浅からぬ縁で結
ばれています。
「黒田官兵衛は、有岡城に幽閉されていた際に、荒木村重の家臣の加藤又左衛門に親身な世話になり深く恩
義を感じ、解放後、又左衛門の次男玉松を養育しました。その玉松は黒田二十四騎の一人、黒田三左衛門と
して成長し、黒田家の重鎮として活躍しました。」
黒田三左衛門は黒田一成とも称し、筑前入国後、朝倉市の三奈木に居館を構え、1万6,205石を拝領しました。
三奈木に居を構えたため、三奈木黒田家とも称されます。寛永14年(1637年)の島原の乱では江戸幕府軍の
総大将・松平伊豆守信綱(知恵伊豆)の軍議にも参加します。藩士達は福岡藩主である長政の長男忠之(た
だゆき)の指揮には従わず一成に従ったとされます。
明暦2年(1656年)11月13日、86歳で死去。法名:睡鴎斎休江宗印居士。墓は福岡市博多区の崇福寺と朝倉
市三奈木の清岩寺(清岩禅寺)にあります。一成の家系は代々福岡藩の大老職を世襲する別格的存在となり、
明治に至るまで黒田家の筆頭重臣家として存続し、明治時代に男爵となり華族に列されました。
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近畿朝倉同窓会 & 関西あさくら会合同 第6回歴史ウォーキング 有岡城落城!と 伊丹の酒蔵
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■日 時 :平成26年5月10日(土曜日)
■集 合 :JR伊丹駅西側 AM10:00集合
■アクセス:JR大阪駅−JR東海道本線−JR尼崎乗り換え福知山線−伊丹駅
■持 参 :弁当、替着、雨具他
■コース :JR伊丹駅−有岡城趾−みやのまえ文化の郷ー稲名野神社ーJR伊丹駅
(もし時間があって皆さん元気なら「猪名川の渡し」から空港へ)
■概 要 :
(*)このHP中、青い枠で囲まれた写真は羽野さんの提供です。ありがとうございました。
JR伊丹駅に集合。この駅もかっては有岡城の一部だったのである。JR線開通に合わせて削られた。
<伊丹城(有岡城)>
いざ、伊丹ウォーキングに出発です。
城郭構造 平城
天守構造 不明
築城主 伊丹氏
築城年 南北朝時代
主な改修者 荒木村重
主な城主 伊丹氏、荒木村重、池田之助
廃城年 天正11年(1583年)
遺構 石垣、土塁、堀跡
指定文化財 史跡(国指定)
伊丹(いたみ)城は有岡(ありおか)城ともいう。兵庫県伊丹市にある城。国の史跡に指定されている。南北
朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)には改築され、それまでの伊丹城が日本最
古の天守台を持つ平城となった。しかし天正2年11月5日(1574年11月18日)、荒木村重によって攻め落とされ、
のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。
荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城することになる。大坂城や江戸城などにも
あった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。城の東側を流れる伊丹川との間は崖になってお
さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていた。
この石垣の裏手、林の中に崩れかけた石垣が僅かに残っており、このあたりが官兵衛幽閉の土牢である可能性
が高いそうだ。写真も写したつもりだったのだが、どこかへ消えてしまった。村重の怨霊が消し去ったのかも。
石垣に仏様を使うのは、この時代どこの城にも見られる。昔はそんなに石に困っていたのかと思っていたが、
どうも別の意味があるのかもしれない。つまりお城を仏が守っているようにしたかったのではないかと思う。
大和郡山城などは仏様が石仏のまま石垣に組み込んであるし、安土桃山城の石段は、仏様の像を足で踏んで
上っていくようになっている。仏様までかり出して、侍という奴らは何と罰当たりな奴らじゃと当初思って
いたけれども、そんなに石に困っていたわけでは無く、仏の加護を願ったのだろうと思う。
伊丹城・有岡城の略史
南北朝時代:伊丹氏により築城。伊丹城と称する。
天正2年(1574年):荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。
天正7年(1579年):村重謀反により織田軍に攻められ落城。
天正8年(1580年):池田之助が城主になる。
天正11年(1583年):之助が美濃に転封されることにより、廃城。
明治26年(1891年):鉄道敷設の為、当城東側破壊。
昭和50年(1975年):発掘調査開始。
その後史跡公園として整備され、現在に至る。
現在確認可能な残存遺構
伊丹城井戸跡
有岡城石碑石垣
土塁
井戸跡
堀跡
など。
その他
黒田如水は当城内にあった牢内に幽閉されていた時期があった。信長に反旗を翻し城に籠もっていた城主の村重
は、家宝の茶壺である兵庫壺を背負い、名鼓「立桐筒」を腰に結わえ、少数の家臣と共に尼崎城に移ったという。
逃亡という説もあるが、その後有岡城が直ぐに落城しなかったところから、同盟を結んでいた毛利と連絡を図る
ためとの説がある。残された家臣は堅城を恃みによく戦ったがついには内応により落城する。猪名野神社の紋章
は村重を従えていた織田家の家紋(織田木瓜)である。城跡南東には「荒村寺」と言う村重の由来を感じさせる
寺があり、伊丹城・有岡城で亡くなった人達の慰霊碑がある。城跡南西には「墨染寺」と言う寺があり、謀反後
に処刑された荒木家由来の人々の墓がある。
所在地 本丸跡 伊丹市伊丹2丁目(JR伊丹駅西側。有岡公園内)
岸の砦跡(北曲輪の跡) 伊丹市宮ノ前3-6-1(猪名野神社境内西側)など。
その他市内各地に遺構がある。
有岡城往事の想像図
こういう記事を読むと、これまで抱いていた荒木村重に対するイメージが違ったものになる。「反旗を翻した謀
反人」「妻子を捨てて一人で逃げた卑怯者」「コロコロ反旗を翻す変節漢」というイメージとはどうも違う人物
のように思えてくる。戦国時代、武将達は盟友関係を結んでは裏切り、自領の領地拡大にやっきとなるので変節
漢は世の常だったのだが、それにしてもこの荒木村重の有岡城落城の後の人生は不思議である。我々が思うより
もっと複雑な人間だったのかもしれない。
荒村寺
所在地 兵庫県伊丹市伊丹1丁目15-2
山 号 古城山
宗 派 曹洞宗
本 尊 十一面観音菩薩
「荒村寺」の慰霊碑。これは信長と村重の「有岡城の闘い」で死んだ人を祀る慰霊碑である。
荒村寺(こうそんじ)は兵庫県伊丹市にある曹洞宗の仏教寺院。この地は伊丹字古城と呼ばれ、有岡城跡の一部
で、寺の由来記によると、伊丹郷町の木綿屋徳三郎が禅宗に深く帰依し、堺町にあった閑室に嘯山虎渓和尚を招
いて参禅したのが始まり。天保年間(1830年〜1843年)に一妙法国尼を開基とする尼寺となり、城山庵と号したが、
荒木村重の古城跡の由緒から、昭和39年(1964年)寺号を荒村寺と改めた。昭和52年(1977年)JR伊丹駅前周辺整備
により、有岡城跡の現在フランドル鐘(カリヨン)のある辺りから現在地に移転。
<境内>
行者堂 竜王堂 稲荷堂 応安7年(1374年)の宝篋印塔(一部分は現在手洗い鉢として使用)
天保13年(1842年)の一石五輪塔
鬼貫句碑(上島鬼貫が詠んだ「古城や茨くろなる蟋蟀」の句が刻まれ、幕末の文人、山口太乙・岡田糠人・梶曲
阜が慶応元年(1865)建立。)
墨染寺
有岡城の「上搨ヒ砦」のあったところで、荒木村重の謀反後に処刑された荒木家由来の人々の墓がある。
鬼貫は伊丹の俳人
このあたりが上搨ヒ砦のあった所だが、今はもうそれを偲ぶよすがは何も残っていない。
伊丹郷町
ホームセンター「ニトリ」の横に「伊丹郷町」の説明板があって、有岡城大溝の説明もあった。
町全体が城内だったのだから至る所に遺跡はある筈なのだ(今は建物ばかりで殆ど無いけど)。
「ロマン事業」に沿って整備された町並み。酒造の町らしいたたずまいが続く。
みやのまえ文化の郷は 美術館、工芸センター、伊丹郷町館(旧岡田家住宅、旧石橋家住宅、新町家をいう) に
(財)柿衞文庫を加えた文化ゾーンの愛称です。各館の行う展示事業や各種講座、イベント等へ気軽にご参加下さ
い。また、江戸時代の商家や酒蔵の文化財と日本庭園も常時公開しております。皆様のご来館を、お待ちしてお
ります。
■伊丹市立伊丹郷町館
■旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)
江戸時代の延宝2年(1674年)に建てられた町家で、建立当初から酒造業を営んでいました。岡田家の所有となっ
たのは明治33年。店舗は、兵庫県内に現存する最古の町家で、年代が確実な17世紀の町家としては全国的にも貴
重。酒蔵は、現存する最古の酒蔵で、江戸時代に隆盛を極めた伊丹の酒造業の歴史を今に伝える重要な文化財で
す。平成4年1月21日重要文化財に指定されました。内部には伊丹の酒造業の歴史の展示を行なっています。
■旧石橋家住宅
江戸時代後期に建てられた商家。主屋の正面は、つし二階の塗り込めの軒裏と虫籠(むしこ)窓、出格子窓、正面
の摺(す)り揚げ大戸の出入口装置やバッタリ床几(しょうぎ)、揚見世(あげみせ)など、建設当初の店構えを残し
ていることから、平成13年に県指定文化財になりました。石橋家は、18世紀に猪名野神社の門前通り北少路村に
移り住んで商売を始め、明治以降、紙と金物の小売業のかたわらに酒造業を始め、日用品の雑貨商を営んでいま
した。
■伊丹市立美術館
諷刺とユーモアを標ぼうする当館はフランスのドーミエ、イギリスのホガース、ギルレイなどの作品をはじめと
して、国内外の諷刺画を所蔵していますが、合わせて人間味あふれる企画展を常時開催しています。
■柿衞文庫(かきもりぶんこ)
清酒醸造で栄えた江戸期の伊丹では、俳諧文化が華開き、文人墨客(ぶんじんぼっかく)の往来も頻繁でした。
この中で蓄積された文化遺産に故・岡田利兵衞(俳号・柿衞)の系統的な収集物を加えて発足したのが財団法人
柿衞文庫です。収蔵品は書籍や軸物、短冊などの貴重な資料約 9,500点を数え、東京大学総合図書館の「洒竹
(しゃちく)文庫・竹冷(ちくれい)文庫・知十文庫」、天理大学附属天理図書館の「綿屋文庫」と並ぶ日本三大俳諧
コレクションの一つです。
開設年月 昭和59年11月
所在地 伊丹市宮ノ前2丁目5‐20
開館時間 10時〜18時(入館は17時30分まで)
休館日 月曜(祝日にあたるときは翌日)と12/29〜1/3
利用案内 春・秋2回の特別展、小企画展、各種講座・講演会などを行います
設備 専用駐車場なし(すぐ近くの宮ノ前地下駐車場=有料=をご利用ください)、
トイレ2ヵ所(うち車いす対応1ヵ所)、エレベーター1基
これは何を説明しているのでしょうね?
<稲名野神社(いなのじんじゃ)>
戦国時代、荒木村重の居城「有岡城」の惣構(がまえ)北端を防御する「きしの砦」。西側には土塁が残って
いる。JR伊丹駅西側の有岡城本丸跡とともに国指定史跡となっている。江戸時代、きしの砦跡に築かれた猪名
野神社は、伊丹郷町の氏神。祭神は牛頭天王。明治以降、素盞嗚(すさのお)神。本殿は貞享3年(1686年)
建立。境内には酒造家・商人らの寄進した97基の石灯篭が並んでいる。
元禄16年(1703年)以降、「お渡り」という祭礼が行われていたことが「猪名野神社神幸絵巻」(市指定文化
財)に描かれている。また、境内にあるムクロジ(無患子)は、樹高約13.5メートル(指定時)の巨木で、昭
和61年に市指定文化財となっている。
猪名野神社は、兵庫県伊丹市に鎮座する神社。猪名野坐大神(素盞嗚尊)を主祭神とし、誉田別尊ほか4柱を
配祀する。言い伝えによれば、904年(延喜4年)の創建という。1686年(貞享3年)に本殿が再建されている。
戦国時代に有岡城の北端に位置し、惣構えの「岸の砦」が置かれていた。本殿裏に鎮座する末社の北側と境内
西側を南北に走る道路の間に土塁が残っている。拝殿には清酒発祥の地伊丹に関連する酒造業者の酒樽が寄進
されている。境内には小規模な公園があり「伊丹市立相撲場」の土俵が設置されている。毎年、市内在住の小
学生を対象とした相撲大会が開催されている。
これは以前井上が主催する会でここを訪れたときのものです。今日の行程とは異なります。
<猪名野神社>
主祭神 猪名野坐大神(素盞嗚尊)
創建 不明(904年(延喜4年)との説あり)、1686年(貞享3年)本殿建立
例祭 春祭4月23日、夏越祭6月30日、夏祭7月16日、秋季例大祭10月13、14日
<本殿>
猪名野神社は、兵庫県伊丹市に鎮座する神社。猪名野坐大神(素盞嗚尊)を主祭神とし、誉田別尊ほか4柱を
配祀する。言い伝えによれば、904年(延喜4年)の創建という。1686年(貞享3年)に本殿が再建されている。
戦国時代に有岡城の北端に位置し、惣構えの「岸の砦」が置かれていた。本殿裏に鎮座する末社の北側と境内
西側を南北に走る道路の間に土塁が残っている。拝殿には清酒発祥の地伊丹に関連する酒造業者の酒樽が寄進
されている。境内には小規模な公園があり「伊丹市立相撲場」の土俵が設置されている。毎年、市内在住の小
学生を対象とした相撲大会が開催されている。
本殿周辺には、摂社、末社が幾つも並んでいる。
郷土の俳人、鬼貫の句碑もあった。
上島鬼貫(万治四年(1661)〜元文三年(1738)は伊丹の有力な醸造家に生まれ、早くから俳諧に親しんだ。
25歳で大坂に出て、筑後の三池藩などに経済担当として仕えた。俳諧については、当時流行の伊丹風にあ
きたらず、「まことの外に俳諧なし」と主張。東の芭蕉、西の鬼貫と並び称されている。
「鬼貫」は「おにつら」と読み「キカン」ではない。生涯貫いた俳号である。初めしばらくは「鬼つら」
(きわめて稀に「ヲニ貫」)と書いたことがあるが、以後ずっと「鬼貫」、晩年には「おにつら」と称した。
当時は、まだ俳諧は和歌の下に見られており、和歌の貫之に対して俳諧の貫之を任じた意気の表れで、醜と
鬼は同意義語で「鬼の貫之」を意味する「鬼貫」を使ったのではないかという説(岡田利兵衛)がある。
ここは絵馬堂のようだったが、あまり絵馬は掛かっていなかった。
<昼 食>
猪名野神社の裏手から、猪名川堤防沿いにずーっと緑地帯が作られている。ここを延々と行けば和泉式部
の墓があって、更に行けば「猪名川の渡し」へ行き着く。
上の写真で、金網の向こうに土手が見えているが、これが「岸の砦」の堤防跡である。
かすれて誰の何という句かわからん。
ここだけ歩けるように作ってある狭い散歩道をぐんぐん行くと、何やら石碑があった。
何と有名な白洲次郎の実家の跡だった。この辺りに四万坪の邸宅があったのだ。四万坪ですぜ、旦那。
四万坪ねぇ、ふーむ。昔の金持ちはホンマ桁がちゃいまんな。
この東屋で昼食を取った後、伊丹緑地をさらに歩いて「伝和泉式部の墓」へゆく。伝だから信憑性は薄い。
しかし、ま、ここにこんなものが残っているというのは、やはりなんらかの歴史的な事象が何かあったのか
もしれない、と考えた方がおもしろい。
<伝和泉式部の墓>
<金剛院>
伊丹郷の町へ戻って、「長寿蔵」を改造したレストランの中で、反省会と称する打ち上げ会です
ま、早い話が、この為に集まってきているような感じです。井上の主宰する歴史倶楽部の連中も、結局は呑みたい
ために歩いているような所があります。しかし、もうそれでいいのだと思います。
私の知っている関学出の、住友系ソフト会社の役員は大学時代ヨット部だったそうで、今でも月に一回集まって
西宮港から出航するそうですが、沖へ出た途端、酒盛りだそうです。船は大丈夫なんかいと聞いたら、「ぶらぶら
漂っているだけですわ」と言っていました。
何やら恐ろしい注ぎ方で日本酒をグラスに注ぐスタッフ。
<本日の参加者名簿>
氏名 備考 住所
酒井会長 関西あさくら会 生駒市
奥様 関西あさくら会 同
羽野会長 近畿朝倉同窓会 豊中市
鳥居徳蔵副会長 関西あさくら会 奈良市
田中事務局長 関西あさくら会 豊中市
手嶋事務局長 近畿朝倉同窓会 大阪市
立野さん 近畿朝倉同窓会顧問 吹田市
高良さん 手嶋さん同期・南京無双玉すだれ
重松末弘さん ニッポーに友人 伊丹市
宮原さん 羽野さん甥
大隈精二さん 近畿朝倉同窓会 宝塚市
井上修一 関西あさくら会 吹田市
お疲れ様でした。また次回も是非御参加下さい。
村重・官兵衛・三左衛門フォーラム<PDFファイル>
播磨−伊丹−朝倉を繋ぐゆかりのフォーラムです。
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