第4回歴史ウォーク 幕末の京都・幽界の京都をあるく 近畿朝倉会・関西あさくら会 --------------------------------------------------------------------------------- 京都東山の幕末の名所・魔宮六道珍皇寺・花園天皇陵・明智光秀首塚・東山古刹等々を見て歩き、池田屋にて解散 日 時 : 5月20日(日曜) 集 合 : 京阪「祇園四条駅」東側出口 AM9:00 持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他 行 程 : 陀枳尼尊天 → 建仁寺 → ゑびす神社 → 六波羅蜜寺 → 六道珍皇寺 → 霊山歴史館 → 京都霊山護国神社 → 坂元龍馬の墓 → 霊山観音 → 高台寺 → 芭蕉堂 → 西行庵 → 円山公園・八坂神社・坂本龍馬・中岡慎太郎像 → 知恩院 → 蓮如上人御誕生地 → 花園天皇十楽院上陵 → 青蓮院 → 明智光秀塚 → 三条・池田屋跡 概 要 : 本文参照の事 ----------------------------------------------------------------------------------
<陀枳尼尊天> 四条の歌舞伎座前を南下し、途中から東へ通りを一本入る。そこに「豊川稲荷・陀枳尼尊天(だきにそんてん)」がある。 陀枳尼尊天には数種類の漢字(陀枳尼天、荼吉尼天、押枳尼天、他にも)が当てられており、元来は女夜叉鬼で人を呪う という恐ろしい鬼であったが、仏教に帰依してからは福財をもたらす神として崇められるようになったと云われている。
我国では平安期を境に稲荷神と同体説が言われるようになっている。原始稲荷明神。一方「豊川稲荷」は、日本三大稲荷 の一つと言われ(京都市伏見区の「伏見稲荷」、愛知県豊川市の「豊川稲荷」、茨城県笠間市の「笠間稲荷」)、通称名 の「豊川稲荷」は神社ではなく寺院である。正式には円福山 豊川閣 妙厳寺と号し、御本尊千手観音立像を祀る寺。世間 では「豊川稲荷」の名で広く知られるその「稲荷」とは、妙厳寺の鎮守社として祀られる荼吉尼天のこと。
<建仁寺> 建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。 本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神 雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉 回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見 られる。
また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地 元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、よく日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺 が最初の禅寺である。
<法堂(はっとう)> 仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている。明和2年(1765年)の建立。また、平成14年(2002年)創 建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西(ようさい、えいさい)がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中 国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋 に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(き あんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。
当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建 て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年 (1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽 藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真 言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓 道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。建仁寺は、 応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物 は残っていない。
<ゑびす(恵比寿)神社> 京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれている。その起源 は約 800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に、禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初 に建てられたもの。今日多くの人はゑびす様と言えば「商売繁盛の笹」をイメージするが、ゑびす信仰の象徴とも言える笹 は元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものである。笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸 び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となった。
えびす神社(えびすじんじゃ)は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社。えびす神社は全国に点在し、夷神 社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。また正式名では「え びす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに 関西地域では、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。
蛭子神社の中には、読みが「えびすじんじゃ」ではなく「ひるこじんじゃ」のものがある。これはヒルコ(蛭子神)を祭祀 しているからであるが、祭神がヒルコであっても読みを「えびすじんじゃ」とする神社もあり、これはヒルコとえびすが習 合・同一視されるようになったためである。また逆に祭神がヒルコではなく事代主であっても蛭子神社とする神社もある。
<建仁寺・摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)> 建仁寺の塔頭寺院のひとつで正式名称は禅居庵という。本尊の摩利支尊天は太陽の陽炎(かげろう)が神格化されたもので、 「開運・勝利」の鎮守で正式名称は禅居庵(ぜんきょあん)という。摩利支尊天はもともとは、三つの顔と六本の腕を持ち、 頭には宝冠、身には甲冑を着け、七頭の猪に乗っているインドの軍神である。尊天の使いとして、境内にはあちこちで狛犬 ではなく、狛イノシシやイノシシの置物、祈願絵馬が見られる。開山清拙正澄禅師は、1326年(嘉暦1)北条高時の詔 により中国から日本へ渡るに際して「摩利支尊天像」を袈裟に包んで将来し、当地に祀った。本尊を祀る摩利支天堂は鎌倉 時代後期の創建で中世の禅宗建築の様式を残している。摩利支天を信仰すれば、いっさいの災難をのぞき、身をかくす術を 得ると信じられ、近いこともあって、現在は開運を願って祇園花街の芸・舞妓や多くの人たちのお参りが絶えない。
摩利支天は陽炎(カゲロウ)を神格化した女神で、陽炎のように目に見えなくとも常に身近に居て、月日に先立って進み、 進路の障害になるものや厄を除き、利益を施す。武士の間でも戦勝の神として信仰され、出陣に際しては鎧の中に秘めてお 守りとされた。軍神とされる一方、五穀の結実を豊かにする農業の神ともされる。摩利支天像は、三面六臂で、走駆する猪 に乗っているとされるものが多い。ここから、猪が神使とされた。
<京都名物・幽霊子育飴> -------------------------------------------------------------------------------- 六波羅蜜寺の北に古びた飴屋がある。元は珍皇寺門前にあったらしいが、六波羅名物だそうだ。飴は「子育ての幽霊飴」 (「ゆうれいあめ」である!)と呼ばれ、次のような伝説が店の看板に張ってある。 赤ん坊を抱いた女が毎日三文(さんもん)の飴を買いにきた。不審に思った店の人が女のあとをつけていくと、鳥辺野墓地 でその姿が消えた。この話を聞いた近くの寺の住職は、最近臨月で亡くなった女性の墓で念仏を唱えた。すると,土の中 から赤ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こすと、飴をしゃぶる赤ん坊がいた。死してなお子を思う母の執念が、幽霊とな って子を養ったのである。 -------------------------------------------------------------------------------- 何と言う、怖ぁ〜。しかし考えて見れば、似たような話はあちこちで聞く。その子供が将来、有名な坊さんになったとい う話もどっかで聞いたような気がする。しかし「幽霊飴」とはなぁ。ネーミングが凄いよね。
<六道珍皇寺> 東山区東大路通松原西入小松町 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。 本尊は薬師如来。8月7−10日の六道詣り、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展等の特別公開時を除き非公開)で 知られる。通称六道さん。この付近が「六道の辻」であるとされる。京都「魔界名所」の一つ。 この寺の創建については諸説あって不詳であるが、東寺の文書によれば承和年間(834年〜848年)山代淡海が創建したと いう。鎌倉時代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺して再興、臨済宗に改められた。 明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、1910年(明治43年)独立した。毎年8月15日の盂蘭盆(うらぼん) では、先祖の精霊(しょうりょう)を迎えて供養が行われるが、京都ではその少し前の8月7日から10日の間に精霊を迎 えるため、珍皇寺などに参詣する精霊迎え(六道詣り)が行われる。の間珍皇寺は、水塔婆を納め、迎え鐘をつき、高野槙 の葉を求めて精霊迎えする人で賑わうという。迎え鐘とは境内にある銅鐘のことで、その音が冥土にまで届き、亡き人が この響きに応じてこの世に呼び寄せられると信じられた。また、精霊は槙(まき)の葉に乗って冥土(めいど)から家に戻っ てくるとされるため、これを持ち帰り、13日には仏壇に供える。
<小野篁卿旧跡> 平安前期の貴族小野篁(802〜52)は博識多才をもって知られる人物だが、奇行が多くさまざまな伝説の持ち主である。死後、 閻魔庁(えんまのちょう)に仕え、その亡霊が珍皇寺門前の六道の辻から冥府(めいふ)に通ったという伝説が生じた。この 伝説に基づき「小野篁卿旧跡」の石標が珍皇寺前に建てられている。
<六道の辻> 六道とは、仏語で衆生(しゅじょう)が生前の業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち,地獄・餓鬼・畜生・ 阿修羅(あしゅら)・人間界・天上界のことである。六道の辻は,六道へ通じる道の分かれる所の意で、一般的に珍皇寺門 前のT字路をさす。小野篁が冥府との往復を果たしたという伝説から、この辺りが冥界への入口「六道の辻」と称された。 珍皇寺内と西福寺前に六道の辻を示す石標が建てられている。西福寺は、空海が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵 堂を建て、自作の土仏地蔵尊(六道の地蔵尊)を祀ったことに始まると伝えられている。
<清水への参詣道> 六波羅の地は清水寺への参詣道だった。平安時代末期にできた歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には「何れか清水 へ参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰、四つ棟、六波羅堂、愛宕寺、大仏深井とか、それを打ち過ぎて八坂 寺」と記され、鴨川に架かる五条の石橋を渡るとすぐに六波羅蜜寺があったことを歌っている。なお,当時の五条通はいま の松原通,つまり珍皇寺の前の通りである。また,16世紀に作られた「清水寺参詣曼荼羅」(きよみずでらさんけいまん だら)にも、信仰を集めた六波羅蜜寺の地蔵堂が描かれている。
円山公園(まるやまこうえん)は、京都府京都市東山区にある公園。国の名勝に指定されている。園域は八坂神社、知恩院 に隣接する。圓山公園とも表記される。「祇園枝垂桜」に代表される桜の名所である。もとは八坂神社の境内の一部。現在 の園地計画は武田五一がまとめ、園内にある回遊式の日本庭園は小川治兵衛が作庭、野外音楽堂や坂本龍馬と中岡慎太郎の 銅像などもある。 円山公園の枝垂桜は「一重白彼岸枝垂桜」(ひとえしろひがんしだれざくら)という品種で、初代の枝垂桜は1947年(昭和 22年)に枯死したため、現在は2代目が植えられている。花見のシーズンにはライトアップが行われ、深夜でも花見客の姿 が見られる。しかし、カラスが生ゴミを狙って枝垂桜の枝に止まるため小枝が折れたり、糞害によってダメージを受け花の 咲かない枝が生じることが問題となっており、「京都新聞」にも掲載された。なお、二条駅前(千本通側)に植えられてい る枝垂桜は円山公園の枝垂桜3代目である。敷地内には円山公園音楽堂があり、約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利 用されている。過去には乗馬場もあったが現在は廃止されている。
<明智光秀塚> 国武将・明智光秀は、天正10年(1582)6月2日、主君である織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。 その後、6月13日、山崎合戦で秀吉軍に破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖付近で土民に襲われ生涯 を閉じる。 白川橋を南に下がった東側、和菓子屋・餅寅さんの横に「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の銘が入っ た石碑が建っている。その路地の奥に、光秀の木像と位牌を祀った小祠を中心に、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、 「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と刻まれた石碑がある。かつてはこの祠の中に、光秀の遺品と遺骨が納め られていたと伝えられている。 「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の石碑は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立されたもの。光秀の木像は厨 子の中に納められていて見ることはできない。餅寅さんでは、「光秀饅頭」という銘菓を売っている。光秀の首塚は、も とはこの場所にあったのではない。『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの 西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋められ塚が築かれた。後世、光秀の子孫と名のる明田氏が、その 塚にあった石塔を自宅(現在地の東)へ移して祀ったのがはじまりという。明治維新後、現在地に移され、今も大切に祀 られている。