伊丹・姫路・福岡県朝倉3市をつなぐもう一つの戦国ドラマ

と題して、以下のフォーラムが兵庫県伊丹市で開催されました。朝倉から森田市長も来阪されましたので、
関西あさくら会幹部も駆けつけ、官兵衛の結ぶ奇縁に思いを馳せたのでした。






藤原保幸伊丹市長の挨拶


森田俊介朝倉市長の挨拶






黒田一成(通称 三左衛門) 出典:ウィキペディア


(福岡市博物館)
 
時代   安土桃山時代 - 江戸時代初期 
生誕   元亀2年(1571年) 
死没   明暦2年11月13日(グレゴリオ暦1656年12月28日) 
改名   玉松(幼名)→黒田一成、 睡鴎(号) 
別名   三左衛門(通称) 
戒名   睡鴎斎休江宗印居士 
墓所   福岡市博多区千代の崇福寺 朝倉市三奈木の清岩禅寺 
官位   美作守 
主君   黒田孝高→黒田長政→黒田忠之 
氏族   加藤氏→黒田氏(三奈木黒田家) 
父母   父:加藤重徳 養父:黒田孝高 
兄弟   加藤吉成、一成、吉松(早世)、黒田蔵人室、藪忠綱室 
妻    正室:栗山利安の娘 
子    久野重時室 養子:一任(外孫(久野重時の子)) 

黒田一成(くろだかずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣で、黒田二十四騎や
黒田八虎の一人。加藤重徳の次男。通称は三左衛門。兄に加藤吉成(よししげ)がいる。娘に久野重時室(重時は黒
田家家臣)。養子に黒田一任(かずとう、久野重時の長男で外孫)。三奈木黒田家の初代当主。

生 涯
元亀2年(1571年)、荒木村重の家臣・加藤重徳の次男として摂津伊丹(現兵庫県伊丹市)に生まれる。
石山合戦の時、織田信長に反抗した村重の説得の為に黒田孝高(当時は小寺孝隆)が村重居城の有岡城へ向かったが、
捕えられ牢獄に入れられた。この時、重徳が色々と世話をしてくれたので孝高はその恩に報いるため、有岡城の戦い
で村重が敗れて没落した後に一成を自分の養子として迎えている。一成は孝高の子・長政の弟のように育てられたと
いう。
天正12年(1584年)の和泉での根来衆・雑賀衆の一揆との岸和田の戦いが初陣。その後、四国征伐や九州征伐にも出
陣、耳川の戦いでは首を2つ討ち取り知名度をあげる。豊前入国時は80石程度だったが、加増され5,000石程まで増え
た。城井氏攻めの敗走の際、長政の影武者になることを志願した。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では長政
の先鋒隊をつとめ、金海城に一番乗りをし、晋州城の戦い、白川、西生浦での籠城、稷山の戦いなどでも活躍した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも武功を挙げる。関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる木曽川・合渡川の戦いでも敵
の首を挙げ、関ヶ原の本戦でも石田三成の重臣の蒲生将監(安藤直重)の首を挙げた。このような黒田隊の戦功によ
り、長政は徳川家康から一番の功労者として筑前(福岡藩)に52万3,000石を与えられた。

筑前入国後、三奈木(現福岡県朝倉市)に居館を構え、1万6,205石を領した。三奈木に構えたため、三奈木黒田家と
称される。馬印は白の御幣である。寛永14年(1637年)の島原の乱では江戸幕府軍の総大将・松平信綱の軍議に参加
する。藩士達は黒田忠之の指揮に従わず一成に従ったとされる。

明暦2年(1656年)11月13日、86歳で死去。法名:睡鴎斎休江宗印居士。墓は福岡市博多区の崇福寺と朝倉市三奈木
の清岩寺(清岩禅寺)にある。一成の家系は代々福岡藩の大老職を世襲する別格的存在となり、明治に至るまで黒田
家の筆頭重臣家として存続し、明治時代に男爵となり華族に列した。

人 物
体格は大兵肥満、身の丈6尺の巨漢であった。城井攻めから撤退する際、黒田長政の影武者となることを志願した。
鹿の角を裂くほどの怪力無双の城井鎮房の強弓で、巻藁を射ることが出来たという。長政より大きな大水牛脇立兜を
体格に合わせてかぶっていた。関ヶ原の戦いでは目立ち過ぎて狙撃されたという。首級を幾つもあげた記録が残って
いる。島原の乱では総大将の松平信綱の軍議に招かれ、意見を求められた。兵糧攻めを具申したと云われる。
歌を詠み、絵も描き、『黒田長政記』を著した。島津氏や豊臣秀吉などの兵火に遭った春日神社 (春日市)、美奈宜
神社など、領内の神社仏閣の再建や建立に力を注いだ。三奈木に建立した清岩寺に、横岳江雲和尚の讃の肖像画が残
されている。
宮本武蔵の父の新免無二が、かつて仕えたと考える研究者が多い新免宗貫(伊賀守)を、客将に招いている。実弟の
黒田吉松も黒田姓を与えられている。吉松は、慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に参加していた父・孝高や兄・長政を
見舞うため朝鮮半島に渡ろうと
した黒田熊之助に同行したが、その途中で暴風に遭って船が沈没し、熊之助・母里吉太夫(母里友信の嫡男)・木山
紹琢とともに亡くなっている(享年16)。
荒木村重の没落後、父・重徳と兄・吉成は宇喜多秀家、小西行長の順に仕え、関ヶ原の戦いで行長が敗れ処刑される
と浪人の身となっていたが、一成が父兄を黒田家に迎えるよう、主君の長政に願い出て認められたという。前述の、
重徳が長政の父・孝高を地下牢から救出した功もあって、吉成の家系はその後代々藩の中老職に列せられることとな
った。





伊丹市の「荒木村重研究会」の豊田正義氏


姫路市の「播磨の黒田武士顕彰会」の新福杉夫氏


朝倉市商工観光課の隈部敏明氏





 






終了後、朝倉組で記念撮影。森田市長、石井課長、朝倉からご苦労様でした。




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